

![]() |
||||
| ミャンマーの歴史は、チベットや中国から南に下ってきた人々によって作られ、インド から海を渡ってもたらされた社会的、政治的な制度の影響を受けてきました。 最初にこの地にやってきたのはモン族といわれる人々で紀元前3千年くらいのこと だと言われています。その後、ピュー族、ビルマ人、シャン族やカチン族などがこの 地にやってきて多民族国家を形成していくことになります。 最初の統一国家であるパガン朝(1044〜1287)はビルマ人のアノーヤターという 人物によってパガンに建国されました。パガン朝の王たちは仏教を信心しており、 多くのパゴタといわれる仏塔を建国しましたが、これが国家の財政を圧迫すること になり、13世紀後半に、中国の元の侵攻により滅亡します。
![]() その後、ミャンマー上部では、シャン人がアバ朝 (1364〜1555)を築き、ミャンマー下部ではモン 人がペグー朝(1287〜1539)を築き、その支配 が続いていきます。 ビルマ人は、シャン人の支配を逃れ、1531年に タウングー朝(〜1752)を建国します。 タウングー朝はチェンマイやアユタヤなどタイの 諸王国を統合し、分裂状態が一時ありましたが、 大きく繁栄した国家となりました。 その後、国家内部の王位継承争いや、タイによる東部への侵略、インドのマニプル軍 による西方からの侵略などで王朝が衰退し、1752年にモン族によって滅ぼされました。 タウングー朝が滅亡した1752年にアラウンパヤーというビルマ人がモン族との戦いに 勝利し、コンバウン朝(1752〜1855)を建国 しました。 そして、タイのアユタヤ王朝やインド方面に 面したラカイン地方を併合し、領土を拡大 していきます。 |
||||
![]() |
||||
| 19世紀に入ると、コンバウン朝を治めるバジードーが、西方への侵攻を開始し、その 地域を治めていたイギリスと第1次ビルマ戦争(1824〜26)がおこりました。 結果はビルマ側の敗北となり、領土としていた、西のラカイン地方、東のテナッセリム 地方をイギリスに譲渡する形で戦争は終わりました。 しかし、この条約をビルマ側が破ったため、第2次ビルマ戦争(1852)がおこり、結果 として、海への唯一の出口であったペグー地方を失い、内陸国となりました。
その後、イギリスとフランスの勢力争いによりおこった第3次ビルマ戦争(1885〜86) によりコンバウン朝は滅亡し、イギリス領となり、インド帝国の1州となりました。 イギリスは1886年に首都をマンダレーから港湾都市ラングーンに移し、ビルマには 多くのインド人が入ってきました。そして、ビルマは世界最大の米輸出国となっていき ます。
その中で、イギリスの支配と経済生活の浸透が社会崩壊をまねき、国内に民族主義運動が広がっていきます。 第2次世界大戦が始まると1942年に日本がビルマを占領し、 ビルマ独立軍を結成させました。 その中で、アウンサン・スーチー女史の父親であるアウンサン 将軍が、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成し、日本の 支配に抵抗する運動が広まっていきます。 第2次世界大戦後、イギリスはAFPFLと交渉し、1947年1月に ビルマの独立を認める協定を結びました。 AFPFLは4月の選挙で圧倒的多数の議席を獲得しましたが、 その年の7月代表のアウンサンは暗殺されてしまいます。 その後、かつての学生運動指導者のウー・ヌが初代首相と なるビルマ連邦が1948年1月に成立しました。 ビルマの政権をとったAFPFLは、1958年にウー・ヌとネーウィンの2つの派閥に分裂し ました。その後、1962年にネーウィンがクーデターをおこし、独裁的な軍政を開始しま した。 ネーウィンは「ビルマ式社会主義」をめざして、土地や企業の国有化を進めましたが、 農業生産や輸出が減少するなどして、経済の衰退をまねくことになります。 1974年に新憲法が公布され、国名もビルマ連邦社会主義共和国となり、大統領には ネーウィンが選出されました。その後、中国との関係を維持しながら、中立・非同盟の 立場をとり、社会主義国家として、国際社会から徐々に離れていくことになります。 1988年、アウンサン・スーチー女史が率いるNLD(国民民主同盟)による民主化運動に より、1962年より続いてきたネーウィンの独裁体制が崩壊しました。 その後、ネーウィンのもとで参謀長をつとめていたソウ・ウマン将軍がクーデターを決行し、 SLORC(国家法秩序回復評議会)を設置しました。この軍事政権により、 1989年に国名をビルマからミャンマーに、首都名をラングーンからヤンゴンに改称しま した。 しかし、1990年の総選挙では、NLDの圧勝という結果に対して、SLORCは国会への召集 を拒否しました。 その後アウンサン・スーチー女史率いるNLDと、SLORCの対立が激化していきます。 アウンサン・スーチー女史は1989年から自宅軟禁されていましたが、1995年に一時軟禁 が解除されました。しかし、その後もNLDとの対立が続き、アウンサン・スーチー女史は 軟禁状態が続いています。 1997年には、SLORC率いるミャンマーはASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟し、SLORC はSPDC(国家平和発展評議会)へと改組しましたが、実態はSLORCと変わっていない 状況が続いています。 |